メディア王国の頂点に君臨した鹿内家。その跡継ぎとしてグループを率いた鹿内宏明氏の知られざる物語。あなたはどれだけの真実を知っていますか?
鹿内宏明氏は、フジサンケイグループ会議の議長に就任した際、どんな肩書きで就任しましたか?
議長就任、その裏側
鹿内宏明氏は、1988年に亡くなった父・鹿内信隆氏から議長を引き継ぎましたが、当初は『議長代行』の肩書きでした。これは、父の死後、グループ内の権力闘争が激化する中で、まだ実権を握るには時期尚早と判断されたためです。しかし、翌年、信隆氏が急死したことで、宏明氏は議長に昇格することになります。
鹿内宏明氏は、フジサンケイグループ入り前にどんな職業に就いていましたか?
華麗なる経歴、そして運命の選択
鹿内宏明氏は、東京大学法学部卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行しました。入行当初から将来を嘱望され、人事部への異動や海外子会社の立ち上げなど、華々しいキャリアを築いていました。しかし、義父である鹿内信隆氏の要請により、銀行を辞職し、フジサンケイグループ入りを果たします。
鹿内宏明氏がフジサンケイグループの議長として最も力を入れたことは何ですか?
グループ再建、結束への願い
鹿内宏明氏は、父・信隆氏と兄・春雄氏の死によって弱体化したグループの結束力強化に注力しました。グループの最高意思決定機関である『フジサンケイコーポレーション』の会長兼社長に就任し、主幹4社の会長職も兼務。さらに、主幹4社の社長を同社の役員に置くなど、グループ全体の統制を強化しようと試みました。
鹿内宏明氏は、フジサンケイグループの議長をいつまで務めましたか?
失脚の真相、クーデターの影
鹿内宏明氏は、1990年に議長に就任し、わずか2年後の1992年に解任されてしまいます。これは、グループ内の権力争いによって起こったクーデターとも言われています。解任後、宏明氏はフジサンケイグループから完全に離れ、ロンドンに移住しました。
鹿内宏明氏のフジサンケイグループからの解任に最も影響を与えた人物は誰ですか?
日枝久との確執、クーデターの真相
鹿内宏明氏の解任劇の首謀者として、当時フジテレビ社長だった日枝久氏が疑われています。日枝氏は、宏明氏の経営手腕に疑問を抱き、グループの主導権を握るためにクーデターを計画したとされています。宏明氏は解任後、日枝氏について「彼こそが首謀者だった」と語っていたという証言が残されています。